先日、知人と、このことについて盛り上がった。(秋吉が勝手に盛り上がった感もあるけれど、そこは気にしない)

余白が物語をつくる。

すっごく当たり前のことだけれど、移住者や地域と関係性を深く持つようになった人には、それぞれの独自の物語がある。

「たまたま、あそこであの人と会って、あんなことがあったんです…」

「学生時代によくこの地域に来てたんです…」

「奥さんの実家がこっちで…」

などなど、どれ一つ同じものはない。みんなバラバラ。

そんなオリジナルの物語ってどんな時に生まれるのか。

きっと「余白」から生まれるんだと思う。

「無駄」とか「非合理的」とか、そんな言葉に言い換えても良いのかもしれない。

とにかく、なんだか意味が分からなくて、上手く説明できない所にこそ、物語が生まれる。

物語が生まれる場所は人の「心」の中。

「解釈」

目の前の出来事を自分の頭で変換して、自分なりの事象に変える。

すると、物語が始まる。

この「自分の頭で、自分なりに」っていうのがミソで、その必要のない所には物語は生まれにくい。

最もその必要性から遠いのが「定番」という存在。

「○○といえば□□」という存在には、すでに大勢の人の、それでいて正解たらしめる解釈が存在する。

自分の解釈を埋め込む余白が少ない。

「定番」に自分なりの物語を紡ぐのは難しい。

ともすると地域の移住PRやツアーには、この「定番」がたくさん並びがち。

来てくれた方に楽しんでもらいたいから、最も失敗の少なそうな「定番」を提供する。

観光地、名物料理、○○体験。

こうして、(時間を余す事なく使うという点で)優秀なプログラムが完成する。

「余白」が少ないので、自分の頭の中で「物語」をつむぎにくい。

逆の場合はどうか。

例えば、何もないツアーがあったらどうか。

街をぶらっと巡って、たまたま入ったご飯屋さんで出会ったおばちゃんと話すような過ごし方はどうか。

海をボーッと眺めて、「そんなところで何してんだぁ」って話しかけてくれたおじいちゃんと、一緒にお茶をするような過ごし方はどうか。

無駄も多いし、意味も分からない。

でも、きっとそんな時間の過ごし方の方が、人は自分の頭の中で解釈を、物語をつむぎ出すんじゃないか。

でも、きっとそんな時間の過ごし方の方が、人はその土地に人に必然性を見出すんじゃないか。

そして、数年後にきっと語り出す。

「たまたま、あそこであの人と会って、あんなことがあったんです…」

きっとそんなことの連続じゃないかなぁ。地域って。

つまり、「何もないツアー」。

「余白」たっぷりで、偶然(のように感じるでも良い)の出会いをどれだけ緻密に演出できるかなんだと思う。

定番ではなくて、余白を設ける。

この矛盾にも聞こえるところにヒントがあるんじゃないかなー。

もう少しいろんな事例を勉強しよう。